即興と編集

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先日『イン・ア・サイレント・ウェイ』コンプリート・セッションの「Shhh/Peaceful」を聴いていてスタジオ盤との大きな違いに気が付いた。同曲はセッションで演奏されていた際には、明確なテーマ部を持っているということである。
 
マイルス、ハービー、ジョン・マクラフリンらが揃ってテーマを奏で、そこから各自がソロに入っていく。つまり、テーマ→ソロ→テーマというモダン・ジャズのオーソドックスな構造がより強く維持されているのだ。そこでは、茫洋としたプレイに徹しているように思えたジョン・マクラフリンも、意外にも“ソロらしい”ソロを披露している。しかし、その部分はテオ・マセロの編集によってばっさりカットされているのだ。
 


 このアルバムでマイルスが追求したサウンドについて、原雅明は、マイルス・デイヴィスから、環境音楽へ——ジャズの「帝王」が1980年代の日本の環境音楽に与えた影響を探る」で、「中心を欠いている音楽」という言葉を用いて説明を行なっている。『イン・ア・サイレント・ウェイ』では各人はいちおうソロをとっているものの、その演奏がサウンドの中心を成すことはなく、あくまで意識はスタジオ空間における音の配置や、音響などのプロダクションに向けられる。
 
その点が、マイルスのそれまでの60年代作品と決定的に異なる点であると。ここでマイルスとテオが作り出したサウンドは、ブライアン・イーノアンビエント音楽の影響源に挙げたという「He Loved Him Madly」(『Get Up With It』収録、1974年)の名録音につながっていく。
 
 しかし、モダン・ジャズに衝撃をあたえた、ソロの喪失・サウンド・プロダクション優位の発想などは、60年代のポスト・プロダクションを所与のものとするポップスにおいては当たり前のものであったともいえる。自分の経験を言えば、もともと即興を重視する発想がなかったためスタンダードなモダン・ジャズになかなか馴染めず、逆に『イン・ア・サイレント・ウェイ』のサウンドはすぐに気に入ったのだが、これは必ずしも珍しいことではないのではないだろうか。アンビエント、ジャーマン・ロックといった参照考を置くならば、むしろ『イン・ア・サイレント・ウェイ』の音響中心のプロダクションは馴染みやすいともいえる。
 

だが、ジャズについての「即興/編集」「ソロ重視/サウンド重視」をめぐる議論はさらに高度な地点に入っている。先日記事公開された、岡田拓郎の「ジャズにとっての、そしてジャズのみならず多くの音楽への示唆 ピノ・パラディーノとブレイク・ミルズの邂逅が示すもの」は、その最新の地点を示すものとして重要だろう。
 

 本稿で扱われる、ピノ・パラディーノ&ブレイク・ミルズ『Notes With Attachment』はジャズの名門「インパルス」からリリースされたアルバムだ。パラディーノ、ミルズという卓越したプレイヤーの共演に加え、サム・ゲンデル、クリス・デイヴといった現在の重要プレイヤーが集っている。そこで展開される音楽はインパルスのレガシーであるフリー・ジャズスピリチュアル・ジャズに繋がるものでありながら、それでいて未知の質感を持ったものだった。
 
 岡田は、『Notes With Attachments』を、独自の角度でジャズの系譜に対してアプローチするものととらえる。本作には卓越した器楽奏者が揃っているが、その技量を誇示したり、ソロイスト一人にスポットライトが当たるような構造は拒否する。また、明確なテーマ/即興演奏という二項対立もない。これらの特徴から言えば、『Notes With Attachments』には『イン・ア・サイレント・ウェイ』的な「中心を欠いた」性質が受け継がれているといえる。
 
 ときに「コラージュ的」にも感じられる曲展開は、ポスト・プロダクションによって細かく切り替えられているようだ。だがその一方で、各楽器の間には丁々発止の緊張感が常に漂っている。そこに即興演奏のスリルは保持されているといえ、サンプラーによって制作されたヒップホップ的なループなどとはまた異なる質感がある。岡田はこのバランス感を指して「サンプリングで仕上げられたトラックを再び生身の人間のアーティキュレーションによって生じているような(ママ)感触」と表現し、「演奏(あるいは即興)、録音、編集、といったプロセスを複層的に経て生まれたジャズ的なサウンド」なのではないか、と考察している。
 
 そして、自らも即興演奏とポップスを行き来するミュージシャンである岡田は、「編集」と「即興」という二項対立自体を問いに付し、この両者がむしろ互いに含み合っていることを指摘する。たとえば、優れたコンポーザーであるブレイク・ミルズが次々とフレーズを組み合わせる様は編集センスのたまものと言ってもいいのではないか、という具合だ。
 
 たとえば、ロバート・グラスパーのような新時代のプレイヤーにとってはすでに「編集」は所与のものとなっており、即興演奏の際にもポスト・プロダクションへの意識が当然のように共有されているという。そうした場においては、ポスト・プロダクションを意識しつつ、プレイヤーは自らのフレージングを“選ぶ” 。「編集」と「即興」はもはや対立するものではなく、問題はこれらをどう組み合わせるかという、より高次なところにある。
 
 『Notes With Attachments』は、「編集」と「即興」という二者の関係性がいまだにスリリングなものであることを教えてくれる。モダン・ジャズが本来的に持っていた魅力、すなわち、卓越したプレイヤーたちから自然に生みだされる演奏、そのスリルや肉感性を保持しつつ、すぐれてモダンな編集的センスが介在する。同時に、ここで示唆される「即興」と「編集」の可能性はかならずしもジャズの範疇にとどまるものではない。そう思えば、岡田の文章に冠せられた「ジャズにとっての、そしてジャズのみならず多くの音楽への示唆」というタイトルはいかにも適切に思える。