1977年の革命と『Off The Wall』の波及

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 1 978年のマイケル・ジャクソンは次の手を模索していたという。ジャクソン5の栄光を経て72年から75年にかけて良質なソロアルバムを出したものの、時代は変化しつつあった。たとえば、Pファンク軍団やザップなどをはじめとするファンクの流行。EW&F天文学的成功。タイトなアンサンブル、強烈なスラップ・ベース、派手なシンセサウンド。70年代的なソウルがソフトに感じるほどのインパクトとパワーがあったことは想像に難くない。

 また、たとえば77年にはドナ・サマーの「I Feel Love」がチャートのトップに躍り出る。シーケンシャルなベースがうごめき、シンセがきらめくサウンドを耳にしたブライアン・イーノが、「未来の音楽だ」と言った発言は有名だが、ドイツのジョルジオ・モロダーが生み出したゆらめく電子音が延々と浮き沈みするようなサウンドは、クラフトワークと同じくポップミュージックの成り立ちを不可逆的に変化させることになる。

 そしてアンダーグラウンドでは、NYマンハッタンのパラダイス・ガラージやシカゴ・ウェアハウスで夜ごとプレイされていた音楽。煌びやかなストリングスや派手なホーンなどを特徴としたディスコからぐっと装飾をそぎ落としたサウンドは、やがてハウス・ミュージックという音楽につながっていく。また同じ時期に、ブロンクスのBボーイ/Bガールたちはクール・ハークやアフリカン・バンバータのディスコやファンク、レゲエを織り交ぜたプレイで踊り狂っていたことだろう。

 ロック史において1977年はロンドン・パンク隆盛の年、ピストルズの『勝手にしやがれ!』やクラッシュ『白い暴動』などがリリースされた「革命」の年として記録されるが、その後40年のポップス史の流れを考えれば、これら、ダンスミュージック上におきた「革命」が、パンクと同等かあるいはそれ以上に重要な事件であったことは間違いない。そして、パンクがそれまでのロックを陳腐に思わせたように、ファンク/ディスコ/テクノの強靭なグルーヴも、それまでのソウル/R&Bを色褪せて感じさせたと想像できる。

 1978年、20歳のマイケル・ジャクソンは映画「The Wiz」の撮影中にクインシー・ジョーンズという男と出会う。フランク・シナトラレイ・チャールズなど数々の名作にかかわった音楽界のレジェンドはマイケルのプロデュースを申し出、25歳差の、ポップス史上最も名高いタッグが誕生した。何といってもジャズ畑での活動がとっさに思い浮かぶクインシーだが、この時代にはブラザーズ・ジョンソンというファンク・バンドのプロデュースを行なって成功させていた。マイケル・ジャクソンのプロジェクトに向け、クインシーはブラザーズ・ジョンソン作品を含め、自らのキャリアでかかわったミュージシャンたちを総動員させてそれに取り組んだ。それは『Off The Wall』というポップス史上の傑作に結びつくことになる。

 強力なスラップを持ち味とするベーシスト、ルイス・ジョンソン。優秀なトランペット奏者/アレンジャー、ジェリー・ヘイ。デヴィッド・フォスタージョージ・デューク(synth)、パウリーニョ・ダ・コスタ(per)といった卓越したプレイヤーたち。新進気鋭のキーボーディスト、スティーヴ・ポーカロ、グレッグ・フィリンゲインズ。そして、エンジニアには天才・ブルース・スウェディンを起用する。みな、クインシーが過去のセッションでかかわってきた最高のプレイヤー/スタッフたちだ。クインシーはこのプロジェクトに対し「自分のやってきたことすべてをつぎ込んだ」と語っているが、クレジットを見るだけで、彼がマイケルのプロジェクトにどれだけの気合をかけていたかが伝わってくる。

 また、彼が連れてきたのはプレイヤーだけではなかった。クインシーはこの時期ロッド・テンパートンというイギリス人作曲家に惚れ込んでいた。ロッド・テンパートンは当時ドイツのヒート・ウェーヴというグループで活動していたが、クインシーは彼を頻繁にスタジオに呼び出し、テンパートンはそのたびにヨーロッパとアメリカを飛行機で往復したという。この熱の入れようから見ても、クインシーが彼を『Off The Wall』プロジェクトに不可欠な存在と考えていたことは間違いないだろう。テンパートンは見事にその期待に応え、「Rock With You」という最高の成果を生み出す。彼はその後も「Thriller」などの作曲を通し、チーム・マイケルの中核として活躍することになる。

 『Off The Wall』は、マイケルを含めた同世代の若い才能が躍動して作られた作品であった。たとえばスティーヴ・ポーカロやグレッグ・フィリンゲインズは80年代を代表するプレイヤーだが、この時点では20代であり、それほどのキャリアがあったわけではない。実のところ、マイケルや、彼ら50年代後半生まれの若者たちはパンク・ロックの担い手とそれほど変わらない年齢だったのだ。そのなかで生み出されたのは、美しいストリングスなどこれまでのソウル/R&Bのエレガンスを受けつぎつつ、ファンクやポスト・ディスコの息吹を感じさせる新しいサウンドだった。たとえば、1曲目の「Don't Stop 'Til You Get Enough」を聴けばすべてが明らかになるだろう。

 

 ルイス・ジョンソンによる強烈にシンコペイトされた、マシニックなベースで始まり、規則的に打ち鳴らされるパーカッションや、シーケンシャルなカッティングが疾走感を煽る。そのリズムと並走するかのように、煌めくストリングスとホーンが絡みつく。クインシー・ジョーンズの面目躍如といった、すさまじい管弦アレンジだ。余計なフィルを限界まで排したドラムも凄い。コードはこの上なくシンプルで、ブリッジを除いてはほとんどツーコードで曲は疾走する。そして何よりも、そのトラックに乗るマイケルのヴォーカル! ファルセットを中心として、そこに第二声として地声を絡ませるという多重録音的なアプローチを中心とし、今やトレードマークとなった「アッ」「ダッ」という短い声をパーカッシヴに挟み込んで加速させていく。フックでは“Keep on with the force don't stop / Don't stop 'til you get enough”というキラーフレーズが呪文のようにただ4回繰り返される。この斬新な構成はほとんどミニマリズム的と言ってもいい。

 「Don't Stop 'Til You Get Enough」はファンクの破壊力を持ち、テクノのシーケンシャルな疾走感を持ち、なおかつエレガントな管弦を伴うという、これまで誰も聴いたことのないソウル・チューンだった。若いミュージシャンたちの実験は、プログレッシヴなR&Bとして結実したのだ。70年代後半の音楽的革新が、天才マイケルの試行錯誤が、クインシーがつぎ込んだものが、すべてここに記録されている。

 『Off The Wall』はチャートを駆け上り、マイケルに新時代のスターとしての地位をもたらした。その後の活動については言うまでもないだろうが、このアルバムの影響ははかり知れず、『Off The Wall』的なバランス感を持った作品というのは70年代末~80年代前半までには非常に多く見られるが、ここではその中の、一種変わった波及を取り上げたい。それは、大西洋の対岸、「もう一つの革命」であるパンクロックを経て百花繚乱のカオスとなっていたイギリスで起こった出来事である。

 

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 ポール・ジュリアン・ガートサイドは、1955年、ウェールズの首都カーディフに生まれた(マイケル・ジャクソンよりも3歳年上ということになる)。70年代後半のパンク・ムーヴメントのなか、自らを"グリーン"ガートサイドと呼ばせていた*1この青年はスクリッティ・ポリッティというグループを結成し、いくつかのユニークなシングルを出して評論家の注目を集めていた。この時期の曲にはポストパンクの香りが強く感じられるが、80年代に入るとむしろ彼の関心はアメリカのR&Bやダンス・ミュージックに向かっていた。シック、ロジャー・トラウトマン、アレサ・フランクリン…。82年に、彼は『Songs To Remember』というアルバムを作り上げる。その内容はレゲエやファンク、R&Bなどを取り込み、時にはピアノとホーンの前で、時にはリズムマシンの前で、グリーンが甘い声で奇妙な節回しの歌を歌う…という独特としか言いようのないものだった。

 意外なことに、彼はこのアルバム制作時に『Off The Wall』が大きなインスピレーションとなったと語っている。一流ミュージシャンを集めた『Off The Wall』と、地元のミュージシャンをバックにした『Songs To Remember』のアンサンブルは似ていないが、『Songs To Remember』のリズム的なユニークさ、マシニックな疾走感、それと同時に存在するエレガンスやスウィートネス…などは、ある意味で前者を換骨奪胎し、DIYしたものとも言えるのかもしれない。あえて直接的な影響が感じられるものを挙げるとすれば6曲目の「Sex」ぐらいだろうか。このビートには「Workin' Day and Night」や「Get Off The Wall」の高速ファンクに通じるところがある気がする。その上に乗るラップとスキャットの間を行き来するようなグリーンのヴォーカルも、どことなくマイケルを想像させる…と頑張れば言えなくもないだろう。しかし、実際には、これは「想像力」の問題なのではないだろうか。その点では、モータウンR&Bに憧れてガレージ・バンドをやっていたリバプールの若者たちと変わるところはないのである。

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 グリーンは『Songs To Remember』を経てNYにわたり、ソウル・ミュージックの大物であるアリフ・マーディンやナイル・ロジャーズらに直接プロデュースを依頼することになる。彼らの力を借りて完成したのが85年の『Cupid & Psyche '85』で、「Wood Beez (Pray Like Aretha Franklin)」「Absolute」「The Word Girl」「Hypnotize」(ここでのグリーンはヴォーカルのピッチを操作し、かなり"マイケルそっくり"になっている)といった輝かしいシングルを収めたこのアルバムは、ある意味『Songs To Remember』のスウィートネスやリズム的ユニークさを残しつつ、サウンドを超ハイファイ化したものともいえる。ともかくアルバムは桁違いのヒットをおさめ、ゲート・リヴァーブの効いた強烈なリズムの中でフェアライトやDX7の音の粒が飛び跳ねるこのサウンドは、80年代サウンドの金字塔となった。

 一方、マイケル・ジャクソンは『スリラー』を出した後、87年に、より鋭角的なサウンドプロダクションを追求した『Bad』を発表する。ここでは、その5曲目に入っている(あまり注目されることのない)「Just Good Friends」に注目したい。

 
 ゲストとしてモータウンの先輩スティービー・ワンダーを加えた、躍動感あるエレクトロ・ファンクだが、この曲のリズムにせよフックの節回しにせよ、『Cupid & Psyche '85』の曲、たとえば「Don't Work That Hard」や「Perfect」の影響を感じないだろうか?*2スクリッティ・ポリッティとブラック・ミュージックとのかかわりについてはマイルス・デイヴィスと「Perfect Way」の話が有名だが、R&Bへの想像力をもとに生み出されたサウンドがその影響源であるマイケル&クインシーのサウンドに回帰したとしたら、これは80年代における美しい円環ではないか?と思わせるのである。

 

[参考資料]
・「DJ OSSHY TOKYOの未来に恋してる!第26回 対談④ 西寺郷太×DJ OSSHY」、otonano、2018年10月30日。
https://www.110107.com/s/oto/diary/detail/3201?ima=0000&oto=ROBO004&cd=rensai

Netflixドキュメンタリー『クインシーのすべて』、2008年。

Scritti Politti : About Scritti Politti, Nonsuch
https://www.nonesuch.com/artists/scritti-politti

・'Scritti Politti’s Green Gartside returns to Newport for the Busk on the Usk Festival' WalesOnline, 2012.6.28.
https://www.walesonline.co.uk/lifestyle/showbiz/scritti-polittis-green-gartside-returns-2029855

・「高橋健太郎が語るScritti Politti 80年代NYと『キューピッド&サイケ'85』の衝撃」、Billboard Japan、2017年。
http://www.billboard-japan.com/special/detail/2129

*1:キャプテン・ビーフハートのアルバムに由来する。

*2:モータウンの後輩でもあったEl DeBargeの「Who'sJohnny?」(86年)を間に挟めば、よりこの因果が分かりやすくなるかもしれない(https://www.youtube.com/watch?v=yA9WhYnsD_4&list=LL&index=1&ab_channel=AndrewMitchell