Kacy Hillの名前を最初に見たのはどこだっただろうか。モデル、バック・ダンサーなどを経て、2015年にはカニエ・ウェストのG.O.O.D. Musicに所属。トラヴィス・スコットやキッド・カディといったビッグ・アーティストにフィーチャリングされるほか、17年にはカニエの後押しのもとファースト・アルバムをリリース。急速にその知名度を高めていった。
字面だけ見ればスターへの道を順調に進んでいたように見えるが、注目ゆえのプレッシャーやメジャー・レーベル所属ゆえの制約に悩まされたといい、2019年にはG.O.O.D Musicを離れている。そこから新たに活動を再開したのは2020年。インディペンデントで発表した『Is It Selfish If We Talk About Me Again』は、私的なパートナーでもあるJim E-Stackとの共同作業を中心としたもので、聴くものにKacyのアーティスティック/パーソナルな側面を印象付けるものだった。
Kacy Hill
その『Is it Selfish...』からわずか1年の間隔で発表された
『Simple, Sweet, And Smiling』からは、一見、前作よりもポップで聴きやすい印象を受ける。それにはレトロで
楽天的なジャケットや、まろやかで温かいシンセの響きによるところが大きいだろう。だがしっかりと聴けば、
サウンドのあちこちにノイズや刺々しい
サウンドが入り、不穏な雰囲気が漂っていることに気づく。
また、そのなかで歌われる歌詞は意外なほどシリアスなもので、タイトル曲
「Simple, Sweet, And Smiling」にしても「私はシンプルかつスウィートかつ笑顔で
ありたい」と歌うものだ。アルバム制作前、Kacyは
パニック障害が悪化して自宅から外出もできないような状態だったという。そこに父親の健康問題などが重なるヘヴィな状況のなか、このアルバムは制作された。
前作に引き続きJim E-Stackが中心となってプロダクションを担当するほか、キーボーディストの
John Carroll Kirbyが11曲中8曲にソングライティング/プロダクションでクレジット。その他、ハイム等のプロデューサーである
Ariel Rechtshaid、
ボン・イヴェールなどをプロデュース、エンジニアリングした
BJ Burton、
シンガー・ソングライター/トラックメ
イカーの
Mk.gee、インディ/フォーク系の
シンガー・ソングライターである
Ethan Gruska…といった精鋭たちが参加している。
John Carroll Kirby
また本作では、『Is it Selfish...』にくらべて
Kacy自身が制作にかかわる割合が大きくなったという。前作ではほぼJim E-Stackに
サウンド面を任せていたが、今回は不慣れながらも自ら
DAWを操り、そこで生まれた偶発的なミスなども積極的に楽曲に取り入れていった。本作を初めて聴いたとき、まず
「I Couldn't Wait」「Season Bloom」などに聞かれるヴォーカル・エフェクトや多重コーラスの響きが印象に残ったのだが、こうしたヴォーカル・アレンジもKacy自身のア
イデアによるところが大きいようだ。
また、このアルバム制作の際にヒントとなったのは80~00年代のウェルメイドなポップスだったという。
「One's To Watch」のインタビューで彼女は本作のリファレンスを列挙している
が、そこには、
マライア・キャリー「Dreamlover」、
ピーター・ガブリエル「In Your Eyes」、
ブルース・スプリングスティーン「I'm On Fire」、
ポール・サイモン『Graceland』、フェイス・
ヒル、シャナイア・トゥエインなどのポップ・カントリー…といった楽曲が並ぶ。これらは、彼女が自分にとって「Simple, Sweet, And Smiling」なものとは何か…と考えたときに思いあたった楽曲だといい、MTVやケーブル・テレビを通してミュージック・ビデオを見ていた幼少期のイメージともつながっている。
Kacy自身が抱えていたという深刻な
メンタルヘルスの問題と、
マライア・キャリーや
ピーター・ガブリエルの音楽は一見不釣り合いにも思えるが、彼女にとってこうした「Simple, Sweet, And Smiling」な
サウンドを探る作業そのものが、
セラピーとしての役割を果たしていたことは想像に難くない。そして、そのなかで生まれた作品を聴いていると、どこか聴き手もKacyの体験した「癒し」の過程を
追体験しているようにも思えてくる。
*1ノスタルジックでウェルメイドなポップスが生み出す
エスケーピズムや
ノスタルジア、そういった要素と
メンタルヘルスの問題が交差するという点で、本作はVaporwaveなどを経由した
テン年代以降のポップスらしい作品といえる。
ただ、『Simple, Sweet, And Smiling』が面白いと思うのは、むしろ、そのような
ウェルメイドなポップスがもともと持っていたアンビエンスについて気づかせることである。Kacyがリファレンスに挙げた楽曲、たとえば、
ブルース・スプリングスティーン「I'm On Fire」や
ピーター・ガブリエル「In Your Eyes」を聴き返したとき、そこには元からある種の
ニューエイジ/
アンビエント的な音響があることに気づく。『Simple, Sweet, And Smiling』は、
サウンドの直接的な引用や、レトロなイメージを再利用するような「
リバイバル」とはまた少し違った形で、こうしたポップスに内包されていた要素を取り出しているように感じられる。
Bruce Springsteen「I'm On Fire」(1985)
『ボーン・イン・ザ・USA』収録曲で、シングル・カットされて全米6位を記録。ジム・オルークがフェイヴァリットに挙げ、ロードがカヴァーするなど、インディ/オルタナティヴ系のミュージシャンにも愛されてきた一曲。
Peter Gabriel「In Youe Eyes」(1986)
名盤『So』収録曲。偶然かもしれないが「I'm On Fire」とは、カントリーを思わせる速めのシャッフル・ビートという点が共通している。また『Simple, Sweet, And Smiling』ではタイトル曲がこれと同じようなシャッフル・ビートを取っていて、Jim E-Stackの『EPHEMERA』(2020)でもこの変形のようなビートが多用されており、彼の嗜好なのかもしれないとも思わせる。
また、先述したように、このアルバムで鳴らされている音楽は必ずしもノスタルジック/ウェルメイドという次元に留まるものでもない。たとえば、
「So Loud」は、基調こそ心地良いリズム・マシンと柔らかなシンセであるが、そこに突然ノイ
ジーなドラムが切り込む瞬間が強い印象を残す。ラストの
「Another You」では、
アコースティック・ギターの柔らかな響きをノイズが引き裂いている。
こうして挿入されるノイズやエフェクトはいずれもJim E-Stackの手によるものと思われるが、まろやかなアンビエンスのなかに暴力的なノイズが突如入り込むこのバランス感が本作の印象を決定づけている。前作でも彼のエッジの効いた音使いは印象に残ったが、今作では、(John Carroll Kirbyの貢献が大きいと思われる)柔らかで
アンビエント的な音使いが基調のため、よりその対比が鮮明に、効果的に感じられるのである。
仮にシリアスなリリックを理解せずとも、聴き手は『Simple, Sweet, And Smiling』に単なる安らぎだけではなく、ある種のアンビバレンスを感じることができるはずだ。そして個人的なことを言えば、この穏やかさと不安の入り混じった複雑な色彩感こそ、われわれの生きる世界の反映としてリアルなものではないかとも思え、強く惹かれるのである。
参照サイト
[1] Carter Fife ‘Kacy Hill Opens Up on the Difficult Desire to Be ‘Simple, Sweet, and Smiling’ [Q&A]’ Ones To
Watch, 2021.10.15.
[2] Shaad D'Souza ‘Kacy Hill Gets Nostalgic for 'Easy Going' Music Video’ Papermag.2021.10.27.
[3] Kristen Tauer ‘Kacy Hill Is Independent On Her Own Terms’ WWD, 2021.10.15.
[4] ‘The Reintroduction Of Kacy Hill’ V Magazine, 2019.7.30.
[5] Saam Niami ‘Kacy Hill: Jack of All Trades, Mastering One’ office, 2020.7.10.