悪の所在

Netflixオリジナル・ドキュメンタリー「ドラッグ・ビジネス」

(原題:'Business of Drugs')

 

 バナナやコーヒーと同じように、コカインもまた世界的なサプライチェーンを形成している。コロンビアで生産・錬成されたコカインはメキシコを通ってアメリカに入り、薬物依存を引き起こす。それは巨大な社会問題である。

 

 サプライチェーンの末端を見ると、そこには小売業者たち、つまり薬の売人たちがいる。われわれはこのハスラーたちのことを、ヒップホップを通してよく知っている。

 

 一般的な感覚から言えば、違法な薬物を売り付け薬物依存を広げる売人たちに弁護の余地などないように思える。しかし、彼らの一人はこう語る。地元にはろくな仕事がない。ドラッグ・ディールをやれば家族を養えるのだと。現在よりもより良い生活を望むのは当然だし、特に貧困状態ならばなおさらだ。元手もなく、ツテもないものが経済的成功を収めるのは至難だが、ドラッグ・ディールならばそれが可能になるのだ。

 

 次に、サプライチェーンを源流まで遡ってみよう。そこには生産者、つまりコロンビアのコカ農家たちがいる。コカの栽培はもちろん違法であり、コロンビア政府は何億ドルの金を費やして撲滅に動いている。それなのになぜ、農家は悪に手を染めるのだろうか。

 

 経済学者によると、農家がコカ栽培をおこなうのには“経済的合理性”がある。コカインの「製品」としての長点は次のとおりだ。

 

  1. 需要が安定していること
  2. 単価が高価かつ一定であること
  3. 栽培に時間を要しないこと
  4. 原価が安いこと

 

 これらの条件は、バナナなど他の作物と比較しても「優良製品」と言っていい。コロンビアではたくさんの人が月8ドルの貧困線以下で生活しており、彼らが安定的なコカ栽培に手を出すのは「合理的選択」と言えるのだ。

 

 そのように生産されたコカはサプライチェーンを下っていく。次は中間部分、つまり「輸送」の段階である。輸出を司る港湾では多くの役人が目を光らせている。たしかに押収の実績はあるが、実際にはその300倍近い量のコカインが世界中に輸出されている。なぜそのようなことが起こるのか?

 

 港湾の検査官は万全の対策を行なっていると語るが、目の前で行われている検査は、荷物に棒を突き刺して麻薬の有無を確かめる…というどこかおざなりなものだ。『ドラッグ・ビジネス』の別エピソードで、この輸送過程において港湾での検査時間はコストであり、長時間の検査はなるべく避けたいという旨が語られる。

 

 加えて、これは単なる想像だが、仮に "意図的に"麻薬を見逃したとしても、膨大に流出するコカインのほんの一部を誤って見逃したことと、それほど変わるだろうか?と考えてしまうのである。このような実情が検査官たちに与える影響は小さくないと考えるべきだろう。

 

 その一方、運び屋たちは検査を免れるべく工夫を凝らしている。体内に仕組む、ぬいぐるみに仕組む…など、その工夫は感嘆するほど巧妙で、また日々進化している。

 

 経済学者はイノベーションという語を使ってこの運び屋たちを説明する。コカインの価格は原価から小売までのプロセスにおいて、最大で約1000倍以上になる。膨大な利益率こそが、イノベーションが生まれる余地となる。

 

 しかし運び屋たちは大きなリスクを冒しているにもかかわらず、それに見合う利益を得ているわけではないと言う。彼らを支配し、大きな利益を得ているのは取引を取り締まる麻薬カルテルであると。ついに"悪の親玉"が姿を現すのだ。

 

 メキシコ・マフィアは麻薬の流通を支配する最大のカルテルであり、南北アメリカの広大なドラッグ流通網を統治している。しかし、実際にカメラの前に現れたマフィアの構成員は「自分は歯車の一部に過ぎない」とつぶやく。

 

 それは一見責任逃れの言葉に聞こえるが、マフィアでさえシステムをコントロールしているわけではなく、米国内における裕福なコカイン中毒者たちの「需要」に応えて仕事をしているだけだということが明らかになる。それに、一つのマフィアが壊滅したところで、また別の組織がそれに変わるだけだろう。

 

 ドキュメンタリーに登場する人たちの淡々とした語り口は、ときにタバコやアルコール産業の従事者とそれほど変わらないように錯覚させる。先進国での需要がある限り、それに対しての供給は行われる。全世界を組み込んだ資本主義。その中で起こることは他の製品と何ら変わらない。

 

 より安定した供給、よりスムーズで低コストな流通。消費者は欲しかったコカインを手に入れ、産業従事者たちは自らの生活や、家族の生活を支える。それが彼らの「仕事」なのだ。

 

 コカインをめぐる「悪」の絶望的なところは、その所在がどこにも見つからないところではないだろうか。あえて言えば、そのシステムにかかわる全員が悪に手に染めている。しかし、そのそれぞれの地点を見ていくと、そこには何かしらの合理性が存在する。「需要があるから」「生活を支えるため」。そんな中で社会は薬物への依存を強め、麻薬カルテルは大きくなっていく。発展途上国の発展は阻害され、治安は悪化する。

 

 状況は一見絶望的に見えるが、これを変えることは可能なのだろうか。現時点での答えはノーで、過去の麻薬撲滅運動は巨額の金をつぎ込んでいるにもかかわらず大きな成果を挙げておらず、コロンビアのコカイン輸出量は過去最大を更新し続けている。

 

 最後に番組の作り手によって、一つの可能性が示唆される。それは、コカインの合法化と管理の道だ。これは、アルコールやニコチンと同じように「悪」と共存し、手なずける道と言える。いささか過激にも思えるが、ここまで番組を見てきた人間は、それが現状もっともありうる道だということに、ある程度納得することになる。しかし、それでは「善」は? 自由意志は? と考えずにはいられないのも確かだ。

 

 このドラッグについてのドキュメンタリーはわれわれを取り巻くグローバルな「悪」について、また、それがいかに曖昧な観念であるかについて、多くのことを示唆している。