レビュー:Nala Sinephro『Space 1.8』

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2021年9月、25歳のハープ、シンセサイザー奏者Nala Sinephro(ナラ・シネフロ)はデビュー作『Space 1.8』をリリースした。発表後、ピッチフォークが“アンビエント・ジャズのランドマーク”として「Best New Music」を与えたほか、年末にはResident Adviserが年間ベストの一枚に選出。幅広いメディアから称賛を受けた。

 
Sinephroはベルギーのカリブ系(マルティニークにルーツがあるらしい)の家庭に生まれた。ピアニストの母親に育てられ、幼少期からピアノ、フィドル、ヴァイオリンなど様々な楽器を習得するなかでハープという楽器に出会ったという。17年には音楽を学ぶためにロンドンの音大に進学したが3週間で中退している。彼女はこの理由についてガーディアンに「有色人種として、自分の居場所や、自分がやりたいことを表現する場所がなかった」と語っている。アカデミックな音楽教育に居場所を見つけられなかったSinephroだが、ロンドンでは新世代のジャズ・ミュージシャンたちの活動が盛り上がりを見せており、その中心的なイヴェント/コレクティヴであるSteam Downに参加する。

Steam Downのライヴ映像

Steam Downは、2017年5月にサウス・イースト・ロンドンのミュージシャンらをつなぐライヴ・イヴェントとしてはじまった。創設者のAhnanséが「僕らの多くはアフリカン・ディアスポラ」と語っているようにロンドン近辺のブラック・ミュージシャンを中心としたコレクティヴで、イヴェントではメンバーの多様なルーツを反映してラテン~カリブ音楽も頻繁に演奏された。このようなコレクティヴの性質を考えると、カリブ系のルーツを持ち「有色人種として、自分の居場所や、自分がやりたいことを表現する場所がなかった」と語るSinephroにとってそこがいかに重要な場所だったか想像できるような気がする。
 
そして2018年8月頃から、イヴェントで親交を結んだミュージシャンやその仲間などとセッションを繰り返す形でレコーディングは行なわれた。Steam Down所属のAhnansé(サックス)、Wonky Logic(シンセ・ベース)、Tomorrow's Warriors出身のNubya Garcia(サックス)、Eddie Hicks(ドラム/サンズ・オブ・ケメット)、James Mollison(サックス/エズラ・コレクティヴ)、そして、Nubya Garciaの所属するバンド、MaishaのメンバーであるJake Long(ドラム)、Shirley Tetteh(ギター)、Twm Dylan(ベース)など、新世代のUKジャズを代表するミュージシャンたちがクレジットには並んでいる。
 
2018年8月から始まったセッションは年末にはすでに完了していたが、その後のパンデミックのため発表が遅れたという。個人的には、このアルバムが3、4年前にすでに完成されていたというのは意外に感じられた。それは、作品がコロナ禍で関心が高まったメンタルヘルスやマインドフルネスの問題と強くつながっているように思えたからだ。アルバムの重要な背景として、制作前にSinephroが腫瘍を患って治療を受けたこと、そのなかで音楽療法やセルフケアに関心を持つようになったことがある。また、エンジニアでもある彼女(本作のミックスも自らが担当している)は心身と周波数の関係を研究したりもしているらしく、そういった音楽治療/音響学的関心が作品に反映されているのだ。本作の制作過程そのものも、彼女にとってセラピー的な役割を持つものだったようだ。
「このサウンド・スペース(=『Space 1.8』)を、私は必要に迫られて作ったんです。家を一歩出ると、セルフケアのためのスペースがないように感じられたので」
「わたしはそういったスペースのなかにいると落ち着き、喜びを感じるんです。その感覚を音楽に反映したかった」
と、彼女は自分の音楽を説明している。こういった「ケア」の感覚は、パンデミック下の状況で聴いたときに強いリアリティをもって感じられるものだった。実際に2021年には、エスペランサ・スポルディング、ジョン・ホプキンズなど、瞑想や音楽療法的アプローチを取り入れる「ケア」的な関心を共有したアルバムがいくつもリリースされている。また、ファラオ・サンダース&フローティング・ポインツ『Promises』やカルロス・ニーニョ、サム・ゲンデル周辺のミュージシャンがスピリチュアル・ジャズ~ニュー・エイジ/アンビエントを横断するような注目作を次々リリースした年でもあり、Pitchforkはこうした潮流を整理して“Ambient Jazz’s Quiet, Forceful Return”として記事に纏めている。こうした流れと『Space 1.8』はシンクロしているように思えたし、それが作品そのものの、インストゥルメンタル・アルバムとしては異例に感じられるほどの高評価にも繋がったのではないか。
 
しかし、実際にアルバムを聴いてみるとかならずしもセルフケア的なもの、あるいはアンビエント寄りのもの一辺倒でもなく、多様な作品が並んでいることに気付く。ピッチフォークが本作を表わすのに用いた「アンビエント・ジャズ」という言葉に対し、実際の曲たちはアンビエント/ジャズの間を行き来しているように思えるのだ。すなわち、空間的・音響的なものと、器楽的でフィジカルな快感が前面に出たものが混在しているように感じられる。たとえば、テンポを変化させたハープによって鳥の声を表現したという「Space 1」*1や、瞑想を経て10分でレコーディングしたという「Space 7」(いずれも、Sinephro一人による多重録音の作品である)には、パーソナルで瞑想的な感覚が漂う。その一方で、Jake Longによる“ディラ以降”を感じさせるドラムが印象的な「Space 6」では、ときにSinephroのシンセもワイルドなサイン波を響かせ、James Mollisonのサックスと絡み合って白熱した演奏を見せる。こうした多様な楽曲が「Space 」というナンバリングのもとで不思議な統一感をもって聞こえてくるのがこの作品の面白さではないだろうか。Sinephroは本作のレコーディング後に「バンドの演奏だけの曲もあれば、シンセだけの曲もあって『こんなにバラバラの曲ばかりでどうするの?』とも思った」といい、それゆえに「それぞれを独立している『部屋』に例える感じが気に入った」と本作のコンセプトについて語っているが、聴いていると、個人的なものからより公共的なものまでこの世界における様々な大きさの「Space」が並置されているような感覚も覚える。コレクティヴによる音楽制作という面を持ちつつも、開かれているところと閉じているところがモザイク状に存在しているように思えるのが『Space 1.8』の面白いところではないか。
 


アルバムのラストは17分超えの大曲「Space 8」で締められる。Ahnanséのサックスによる即興演奏を軸とするが、そこにハープ、シンセなどを膨大にオーバーダビングしてドローンのようなテクスチャーを形成し、そのなかでさまざまなフレーズが浮かんでは消えていく。アリス・コルトレーンファラオ・サンダースなどの影響を感じさせ、海面や雲の動きを連想させるような圧巻のトラックだ。Resident Adviserはこのアルバムを讃えて「野心的でありながらリラックスしたこれらの楽曲は心をなだめ、落ち着かせてくれる」と評しているが、「野心的でありながらリラックスした」とはまさにこの楽曲にふさわしい表現ではないかと思える。この曲はSinephroにとっても一つの達成だったのではないかと思え、本作発表直後にNubya Garcia「Together Is A Beautiful Place To Be」のSinephroによるリミックス(現時点での最新リリース)が発表されたが、そこでも本トラックと似たような多重録音/ドローン的アプローチが取られている。加えて、このリミックスでは躍動感のあるドラムがグルーヴを刻む瞬間もあり、「Space 6」に見られるような動的なアプローチも入り混じっていることに注目したい。この優れたリミックスを聴いていると、今後『Space 1.8』でばらばらに提示された要素が交じり合い、より複雑な表現に繋がっていくことへの期待が膨らんでいくのだ。
 


  • 参考文献
・柳樂光隆「ナラ・シネフロ、UKジャズの謎多き新鋭が語る「音楽を奏でるのは瞑想的なこと」」(Rolling Stone、2022)
・小川充「ジャズとアンビエントの境界で──ロンドンの新星ナラ・シネフロ、即完したデビュー作が再プレス&CD化」(ele-king、2022)
・中村望「─UKジャズの“現場”最前線─「彼らはヤバい」と評判の軍団 “STEAM DOWN”とは何者か?」(ARBAN、2018)
・Ammar Kalia‘ the mystical jazz of Nala Sinephro’ The Guardian, 2021
・Philip Sherburne ‘Album Review: Nala Sinephro‘Space 1.8’’ Pitchfork, 2021

*1:Sinephroの家の近くには森があり、幼少期からそこで鳴く鳥の声に親しんで育ったという。余談だが、ここで鳴っているハープについてPhilip Sherburneはピッチフォークのレビューで「スティール・パンのように聞こえる」としてカリブ音楽からの影響を指摘していて、これはなかなか面白い読みのように感じる。